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1. 概要

池田大作創価学会第三代会長(1928-2023)は、仏教指導者、平和構築者、教育者、作家、詩人である。 創価学会は日本の宗教教団であり、日蓮仏法を信仰する法華経系の在家仏教団体である。 池田氏は創価学会インターナショナル(SGI)の創設者であり、平和、文化、教育を推進するいくつかの国際機関の創設者でもある。

氏は1960年から79年まで日本の創価学会会長を務め、世界最大かつ最も多様な地域仏教団体の一つである創価学会インターナショナル(SGI)の創立会長を務めた。

世界各地の指導者、文化人、学者たちと議論を交わし、人類が直面している重要な問題を探求した。これらの人々との対話は書籍として70冊以上出版されている。

平和活動の中心は核軍縮と軍縮・不戦への潮流の構築であった。 SGI会長として、氏は核兵器のない世界を目指す世界的な草の根活動を鼓舞した。 また、1983年から2022年まで、核兵器のない世界への道筋を探る「平和提言」を毎年発表している。

教育者であった牧口常三郎初代会長、戸田城聖第二代会長の念願であった創価大学を設立。そして小学校から大学までの創価教育の学校を建設した。 これは、生徒一人ひとりのユニークな創造的可能性を育み、平和、社会貢献、地球市民としての倫理観を養うという理想に基づいた無宗派の学校システムである。

2. 略歴

1928年1月2日、東京に生まれる。

1947年夏、19歳のとき、創価学会の当時理事長であった戸田城聖(1900-58)との出会いによって仏教と出会う。
 戸田第二代会長は戦時中、師である牧口常三郎初代会長(1871-1944)とともに投獄されていた。
 二人とも、国家神道の軍部政府から治安維持法違反・不敬罪の容疑で不当逮捕された。
 1944年11月、牧口会長は獄死。45年7月、戸田会長は出獄、学会を再建した。

1949年、戸田理事長が経営する日本正学館に入社。少年雑誌の編集・出版に従事。

1950年、戸田理事長の事業不振の打開に奔走し、翌51年の戸田第二代会長就任に貢献。

1952年、蒲田支部幹事に就任。

1953年、男子部第一部隊長、次いで、文京支部支部長代理に就任。1954年、参謀室長。

1960年5月、1958年に逝去した戸田第二代会長の後を継いで、創価学会第三代会長に就任。

1963年、民主音楽協会を設立。

1968年、創価中学・高校が開学。

1968年、日中国交正常化提言を発表。

1971年、創価大学が開学。

1975年、SGI(Soka Gakkai International)を創立。SGI会長となり、現在では約190の国と地域で1,200万人を超える会員を結ぶ世界的なネットワークを構築。

1970年代から、人文科学、政治、信仰、文化、教育、学問の各分野における世界の著名人など、多様な背景を持つ人々と対話を重ね、共通の基盤を見いだし、人類が直面する複雑な問題に取り組む方法を明らかにした(1972年、歴史学者A.J.トインビー博士と対談)。

1979年4月、第三代会長を辞任。名誉会長に就任。

1980年、世界芸術文化アカデミーから「桂冠詩人」称号を授与。

1983年、東京富士美術館が開館。

2023年11月15日、95歳で逝去。

3. 仏教指導者

戸田会長の下での薫陶

戸田第二代会長が終戦直前(1945年7月)に出獄してから1958年に亡くなるまでの数年間は、広宣流布(日蓮仏法を発展させる)の多大な努力に費やされた。池田第三代会長は戸田第二代会長の構想実現に専念し、創価学会の発展において中心的な役割を果たした。

池田第三代会長が戸田第二代会長に師事した期間はわずか10年であった。しかし、恩師の指導は池田第三代会長の人生を決定づけた体験となり、その後の第三代会長の行動の源泉となった。池田第三代会長は恩師について絶えず語り、書いた。第三代会長のスピーチや著作のほとんどすべてが、戸田会長の考えや影響について言及している。師匠というテーマは、第三代会長が探求し、議論し続けたものである。著名な人物との対談に於いても、常に恩師について言及し、歴史上の人物についての著作や講演でも、この同じテーマを頻繁に検証している。

戸田理事長(後の第二代会長)は池田青年(後の第三代会長)を雇用したが、事業は困難な状況となった。池田青年は学業の継続を断念したが、代わりに戸田理事長は池田青年に個人授業を行った。同時に、学問を発展させるだけでなく、創価学会内で池田青年を難しい指導的役割に就かせ、直接薫陶した。1951年、戸田理事長は池田青年の奮闘により事業を整理し、創価学会第二代会長に就任した。就任式で戸田会長は、当時わずか3,000人だった会員を、自分が死ぬまでに75万世帯の組織にすることを宣言した。会長就任から1957年にかけての数年間は、創価学会にとって、そして池田青年にとっても目覚ましい活動の時期となった。

池田青年が初めてリーダーシップを発揮したのは1952年のことである。組織進展のペースが遅いことに業を煮やした戸田は、池田青年を東京蒲田支部の責任者に任命した。この支部は2月というたった1ヶ月の間に、まったく前例のない201世帯の新規会員を獲得した。この事例が組織全体を活性化させ、戸田会長の願業である会員75万世帯の実現に弾みをつけた。

池田青年の力量は、4年後の1956年に大阪で行われた拡大運動で実証された。池田参謀室長(後の第三代会長)の下、大阪の組織は1ヶ月の間に11,111世帯を新たに会員に加えた。

政治的関与と迫害

1955年、戸田会長は創価学会を政治の世界に参入させる決断を下し、その年の統一地方選挙に53名の有能な創価学会員を無所属で擁立した。

1955年当時の日本の政治は、大資本の保守的利益と左派の組織労働者の間で分裂していた。この両極の間には、非労働組合員や中小企業経営者などの数多くの民衆が取り残され、戸田会長はそのことを懸念していた。

翌1956年、創価学会は参議院選挙に6人の候補者を擁立した。最終的に3人が当選したが、そのうちの1人が池田参謀室長が率いる大阪選挙区の候補者だった。世間の注目を集めたのは、この選挙結果だった。

国政に影響を与えうる急成長する草の根ネットワークの突然の出現は、政治体制にとって脅威的と受け止められた。北海道夕張市の炭鉱町で起きた選挙後の出来事は、戸田会長の社会的ビジョンに基づいて行動しようと立ち上がった創価学会、そして後に池田参謀室長に向けられた社会的・政治的力の激しさを示している。

夕張は、当時国内で最も強力な政治勢力の一つであった炭鉱労働組合が支配していた。参議院選挙の結果、労働組合の支持する候補者が創価学会の候補者に得票を奪われたことに危機感を抱いた労働組合は、町内の創価学会員やその家族に対して、脅迫とマスコミによる反学会の宣伝キャンペーンを開始した。炭鉱で働く創価学会員は嫌がらせや脅迫を受け、創価学会員の家には印が付けられ、学会の会合は妨害された。信仰を捨てるよう説得するために戸別訪問が組織され、多くの会員が生活の危機を感じた。

戸田会長は事態の収拾に池田参謀室長を夕張に派遣した。池田参謀室長の指導の下、地元の学会員は結集し、公然と組合の行為の合憲性に異議を唱え、言論と宗教の自由に対する攻撃を正当化するよう求めた。公の場で弁明することもできず、組合は引き下がり、嫌がらせを中止した。しかし、これは学会の闘いの始まりに過ぎなかった。

夕張炭礦労働組合の不当な弾圧と闘う中、池田参謀室長は大阪府警本部に呼び出され、事情聴取を受けた。1957年7月3日、池田参謀室長は北海道から大阪へ飛んだ。東京で飛行機を乗り換え、空港で妻と戸田会長と短い再会を果たした。その日の夜、参謀室長は逮捕され、投獄された。

多くの創価学会員が選挙法の無差別投票勧誘条項違反で起訴され、検察は池田参謀室長の責任を告発した。参謀室長は2週間投獄され、取り調べを受けた。

逮捕された何人かの創価学会員の自白強要を武器に、検察は池田参謀室長にも虚偽の自白調書にサインするよう迫り、そうしなければ戸田会長を逮捕し、創価学会本部と戸田の会社を家宅捜索すると脅した。

国家権力は、創価学会員の逮捕を口実に、創価学会への攻撃を開始する意図があることは明白だった。裁判は4年半も行われ、最終的に、1962年1月、池田会長は無罪を勝ち取った。検察側は控訴しなかった。更に、この裁判の中で、検察側が逮捕された創価学会員の取り調べ記録を改ざんしていたことが明らかになった。

これが、その後数十年にわたって池田会長を苦しめることになる権力による攻撃の最初の出来事であった。

公明党の設立

1964年、公明党が結成された。これに先立つ、1962年11月に公明政治連盟が結成されている。

この結成の様子は、小説:新:人間革命 第5巻「獅子」の章、第9巻「衆望」の章などに記されている。
公明党が結党した本質的なビジョンは、仏教の慈悲と生命尊重の原則に裏打ちされた政治であった。

親米と親ソに分断する冷戦イデオロギーにとらわれない日本の政党の必要性があった。つまり、「地球市民」と呼ばれるような、同じ地球社会の一員としての自覚を持った政治指導者が不可欠だと考えていた。
また、公明党という党名が示唆するように、党の存在意義は、日本の社会的・政治的構造に蔓延する腐敗に挑戦することでもあった。

公明党は、慈悲と生命の尊厳という仏教の原則に基づき、創価学会の会員によって支えられてはいたが、構造的にも組織的にも、宗教組織とは切り離され、独立したものであるべきだった。この理念は創価学会の中でも浸透させることは困難で、幾度も大きな会合で言及されている。

また、池田会長は公明党を結党しながらも、当初から自ら政界に進出する意志はなく、公明党の党首になることはないと明言していた。会長が政策提言したのは、中国との関係、すなわち、中国の正式承認、日本が日中国交正常化に取り組む外交政策だけだった。

1968年9月8日、池田会長は学生部の会合で日中国交正常化を提言した。当時、中国は敵国として認識され、国際社会でも孤立を深めていた。池田会長の提案は非難を浴びたが、中国の周恩来首相をはじめ、日中関係の回復に関心を持つ中国と日本の関係者の目にも留まった。日中国交正常化を支持した一人に、衆議院議員の松村謙三氏がいた。松村氏は演説の後、池田会長に接触し、訪中を促した。池田会長は、これは政治家が主導すべき問題だと考え、公明党の代表による訪中を提案した。こうして一連の出来事が動き出し、1972年の日中国交回復へと結実した。
日中友好が世界平和にとって重要であることをよく口にしていた恩師、戸田第二代会長に触発されたと語っている。

現在の日本における創価学会と公明党の関係は、独立した政党とその支持基盤の関係である。

4. 平和

平和構築への動機
第三代会長は第二次世界大戦中に育ち、4人の兄は出征し、長兄はビルマで戦死した。空襲と自宅の消失、逃げ惑う民衆など、戦争の苦しみと惨状を目の当たりにした。

戸田会長の理念
戸田会長の「地球民族主義」の提唱は、二年間の獄中闘争が背景にある。それは顛倒した国家観・人間観を正すものであった。つまり、「国家のため」という美名の下、多くの民衆が犠牲になった。それは「人間のための国家」ではなく、完全に「国家のための人間」であった。
すべての立脚点は、民衆の苦しみに同苦する精神にあった。

ゆえに戸田会長は、どの国で暮らし、どの民族に属しようと、人間には誰しも平和で幸福に生きる権利があると、「地球民族主義」のビジョンを提唱した。その骨格をなす“地球上から悲惨の二字をなくしたい”との戸田会長の熱願こそ、SGIが、国連支援を柱とする平和・文化・教育の運動の源流としてきたものである。
1957年、戸田会長は原水爆禁止宣言を発表した。人間の生存の権利を守るという視点から、人類の生存を危うくする核兵器の悪魔性を鋭く糾弾した。宗教団体が平和運動に関与する、中でも核兵器廃絶を宣言する理由として、「自己の欲望のためには相手の殲滅も辞さないという「核兵器を容認する思想」」の根絶が挙げられる。この核兵器廃絶宣言を戸田会長の遺訓として創価学会は進んできた。

第三代会長の平和への理念の根底には、戸田会長の「地球民族主義」と「核兵器廃絶」がある。

国連支援
第三代会長は、日本の平和憲法を世界に宣揚すると共に、国連を中心に外交を展開すべきであると主張してきた。理想とする世界秩序が容易に実現できないとしても、放置すれば無法状態になることは必然であると指摘した。そして、「人類益」「人道」の視点から、より安定した世界秩序を実現するための努力を継続する必要があると訴えた。
現在の国連に様々な課題があるとしても、国連を足場に新たな世界秩序を模索するべきであると主張した。

平和提言
第三代会長は、1983(昭和58)年以来、毎年、1.26 SGIの日を記念して、平和への提言を発表してきた。 最終的には「平和」「戦争がない世界」を実現することを目指しながら、その途中の過程として「核廃絶」「軍縮」に関しての具体的な提言を毎年提言してきた。

平和実現への取組
日中国交正常化
第三代会長の日中関係の改善に大きく貢献した。1968年に学生部の総会で「日中国交正常化提言」を発表し、公明党が仲介の上、1972年に田中角栄首相のもとで「日中国交正常化」が実現した。

中ソ危機
1974年に池田会長は中ソ両国の首脳と会見し、両国の緊張緩和に導いた。当時、中国とソ連は国境線に軍を配備し、核攻撃も辞さない深刻な対立状況にあった。ソ連のコスイギン首相から「ソ連は中国を攻めない」との発言を得て、中国首脳に伝え、中ソの緊張緩和に貢献した。

TBD

5. 文化

世界平和の前提は「相互信頼」である。その「相互信頼」を築く上でも「相互理解」が必要となる。「相互理解」から「相互信頼」へ移行するためにも「文化の力」は重要である。
また、芸術・文化と宗教の間には密接な関係が存在する。偉大な宗教的精神性の豊かな大地は、文化や芸術の見事な花を咲かせる。また、人間の精神を探求し豊かにすることこそが、人間性そのものを決定する。故に、池田会長は、創価学会の理念の中核に文化を置き、大切にしてきた。

文化とは、人に認めてもらえる優れた作品を生み出すことだけではない。庶民の中にある「人間生命の豊かさの表現」であり、「生き方」そのものであろう。それは「人間性」であり、「人を幸せにする力」を備えている。文化とは、権力、武力、経済力によらずに人の心を耕していく。善なる宗教の発露の一端である。

民音(民主音楽協会)と富士美術館

西洋での美術館の誕生は、民主主義を求める闘争の副産物であった。一部の人間のための芸術が、全ての民衆が利用できるようになった。池田会長は、最高品質の芸術を幅広い観客に提供するために、民主音楽協会と富士美術館を設立した。

民音は今日、日本最大の民間文化機関である。これまでに100を超える国や地域と交流し、民族音楽や舞踊、ポピュラー・アーティスト、スカラ座、国立歌劇場、ハンブルク・バレエ団など、多彩な公演を日本の観客に届けてきた。また、日本の主要都市だけでなく、地方都市にも演奏家を派遣し、広く芸術に親しんでもらうことを目的としている。民音はまた、国内外の音楽コンクールを後援し、新しい才能の育成を奨励している。

芸術を通じて豊かな心を育むだけでなく、文化交流を通じて相互理解を促進し、偏見を取り払い、平和の基礎とすることも、民音の重要な目的である。

富士美術館は、「世界を語る美術館」をモットーに、西洋・東洋の様々な芸術作品(絵画、彫刻、版画など)約3万点を所蔵している。なかでもルネサンス期から現代にいたる西洋絵画500年の流れを概観する約100点が常設展示されている。

鼓笛隊・音楽隊

TBD

文化祭

昨今の状況から、創価学会と公明党の関係が大きく取り上げられているが、淵源は、戸田会長時代に、政治の分野も広宣流布の文化の一端として取り組むべき運動として出発したものである。政治の持つ影響力が大きいゆえに、世間に映る学会像が歪められる懸念も熟慮の上、政治の世界にも進出を決めた経緯がある。 そもそも池田会長が提唱した文化運動に反対した学会幹部も存在した様であるから、もしも将来、「平和・文化・教育」を疎かにする事態となれば、創価学会の存在意義も歪められることになろう。

TBD

6. 教育

池田第三代会長は幾たびも語っている。「教育は最後の事業である」と。

創価教育学会

1930年、牧口常三郎初代会長と戸田城聖第二代会長が創価教育学会を創立した。創価教育とは、人が「幸福になる力を開発する」ことである。当初は教育に焦点を当てて活動されてきたが、当時の教育では十分ではなく、「教育革命」を主張され、その教育革命の実現には、法華経による「宗教革命」が必要だと考えられた。戦後、第二代会長が「創価教育学会」の名称を「創価学会」に変更した。

「教育」から「宗教」への変質したように思う人もいるかもしれない。しかし、「創価教育」が「幸福の実現」を目指す以上、人間そのものに光を当て、その人間自体の変革に取り組むのは自然であり、人の生き方である宗教に行きつくのは当然の帰結であろう。第三代会長は次のように語っている。「教育がなければ人間は盲目になる。権威・権力の奴隷となって使われてしまう。人間の内面に深くかかわる宗教の世界においては、なおさらである。賢明にならねばならない。だまされてはならない。」と。

「教育なき宗教」も「宗教なき教育」も偏頗である。「教育」も「宗教」も共に「人が幸福になるため」にある。

創価学校

1960年代に入り、池田会長は牧口初代会長の教育理論に基づく学校制度の創設に取り組み始めた。1968年、池田会長は東京中学校・高等学校の創立によってその構想を実現した。この学校設立は単なる先師・恩師の願業というだけはなかった。この学校の設立は、池田会長にとって、人生の集大成であり、人間性豊かな教育システムの開発という目標の一環であった。

池田会長が創設した創価学園の最初の校舎は、1968年に完成した。
1971年には創価大学が設立され、その後も国内外に次々と教育機関が設立された。これらの学校では宗教的な教育を行ってはいない。

池田会長を訪問した国際的な著名人の多くは、創価大学、創価学園を訪問している。訪問者は、生徒と教職員の活気と個性、カリキュラムのあらゆる側面に織り込まれた平和への焦点、そして学校に浸透している配慮と懸念の全体的な雰囲気が、おそらく池田会長の価値観とビジョンを最も明確に、最も印象的に表している、と述懐している。

TBD

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